革漉工場見学


日本ではじめて革漉機械をイギリスより輸入した佐藤勝次郎氏。革漉技術を会得し皮革業界に貢献した功績を称えられ、皮革業界の組合・協会の方々から寄贈された勝次郎氏の木像です。今回はその佐藤勝次郎氏の革漉業が前身となった墨田革漉工業株式会社さんで撮影させていただきました。現在の八広の工場は、戦後の混乱が収まり皮革産業が上向き始めた昭和27年に革漉部門だけが分離する形で作られました。

顧問の佐藤功さんにお話をお伺いしました。

「わたしはオリンピックの年昭和39年、その年の3月に新幹線が動くようになったのですが、その頃からこちらの工場にきたんですね。
いったん革製品はちょっと下火になっていて、そのあと輸出がはじまったんですよ。それまでみんな長い約束手形もらって苦労してましたけど、輸出にしたら現金にかわりましたからね。それでみんな非常にうるおった。」

「為替がまだ360円くらいでね。
わたしがパリに行ったときは66万1000円だった。いまは15万くらいで行けるでしょ。バブルが崩壊して、為替が88円くらいになったでしょ。いままで300円で売れたものが88円くらいになっちゃう。そしたら、やめるでしょ。だから(この辺りの工場が)なくなった。」

「そいで今度道ができたでしょ。(現在のゆりのき橋通りのある個所を指さして)ここに道がなかった。みんなお金が無くなって土地を売ったから道ができた。この道を作る計画は戦争前からあったの。戦争前っていうのは昭和20年より前にあったの。でもできないの。売る人がいなかった。みんなだめになっちゃたから工場売っちゃった。
この地図はそこに皮革技術センターってのができる前にわたしが作ってみんなに配って…。うちにくるお客さんの数だけでこれなんですね。うちにこないのもあるから、これ以上あったんですよ。
このあたり、前は全部工場だった。どんな小さなところでも。家族や夫婦でやってるところもふくめてね。100人もいるところはないな。せいぜい50人くらい。いまはないな。ぜんぶシャッターでしょ。あとマンション。」

「この工場は戦後復興してからここに移ってきて、四ツ木にも工場作って。いまはどんどん縮小していまはここしかのこってない… 革っていうのはね、軍需品です。革、ゴム、鉄、これがないと戦争できない。いまはそんなことないけど。
戦争の時も戦後も、ついこないだまで朝から夜の11時まで動かしてた。働き方改革もない。表面的には祭日で休みになっても、実は中はやってる。でないと月曜にうまっちゃうから、仕事で。」

「ここ(東墨田)なめしやさんでしょ。こっち(八広)のほうは、わりと染屋さんが多かったんですよ。浅草の裏のほうにが革の問屋さんが多いんですよ。
こっちでなめした革を、うちで計量して納品書をつけてね、浅草へもっていくと。
浅草の問屋さんがかばんや靴を作る人に販売する、ということでやってた。」

プリントなどの流行はかなり変化がありそうですね。

「流行は昔は2~3年だけど、いまは3か月でせいいっぱいですよ。」

これは何の機械ですか?

「これは面積はかってるから。計量。これは原理的にはどうなってるかというと…コンベアなんですよ。ベルトとベルトの間に穴があいてるんで、コンベアに乗せた革に光があたって、光が隠れた面積をカウントしている。」

※日本で最初に革の計量をはじめたのも墨田革漉工業さんです。機械のない時代は碁盤目になってる板に革を乗せ、縦横を差し引きして計量していたそうです。

「これは鹿。白く染色しているわけじゃなくて、なめし方が違う、白なめし。
スライスした後はお客さんがやるから(加工はしない)。」

革が2枚に分割されてますが、下に落ちている革はどうなるんですか?

「いまはゴミだな。もとは全部使った。どんなんでも。いまはぜいたくだから。」

「作業の工程の順番はなくて、お客さんの注文によってやる。
アイロン押してくれってきたらかける、型押しの注文が来たらやる。全部やるわけじゃない。でも、うちの中の順番はある。この作業の前はこれ、とか。」

研究所の壁に写真が飾ってありますが…

「カメラは中学二年の時からじぶんでやって。デジカメになってからみんなに負けるからやんない。わたしは運動会やなんかでスタートするときとか高飛びするときとか、瞬間をとってたから。いまはばばっと(連写)でとれるから、つまんないの、やってても。」

昼休憩の時間になり、食堂にもお邪魔しました。

お昼は食堂にご飯と味噌汁が用意されていて、おかずだけ持参するか、会社を通して購入します。このシステムは昭和の時代から続いており、みなさん長く働いているので、もう座る席も決まっているんだとか。

働いている人の出身国もさまざまですし、ご飯は好きなだけよそって食べられて、おかずは自分の好きなものを用意するというのがちょうどいい塩梅なんだろうなと思いました。上の写真はスリランカ出身の方が持参したおかずです。

みなさんドライ&マイペースな感じで、食べ終わったらおもむろに床に寝そべって仮眠をとる人も… 働きやすそうな職場の雰囲気で、そのあたりを転職組の従業員のひとに聞いてみました。

「人見知りが激しくて…あんまり人と関わらない仕事と思って。あと工場は上の人がしっかり仕事を教えてくれるだろうって。すごい皆さん優しいし、事務所の方も優しいひとが多いし、ご飯もでるし(笑) 合わない人とは話さなければいいみたいなかんじなんで、居心地はいいです。」

前の職場で人間関係で疲弊して、工場だったらと転職してうまくいっている、というのは工場を撮影していると聞く話ですが、わたしも若いころに町工場で働くという選択肢を思いついていればと若干後悔しました。

※文章の一部は墨田革漉工業株式会社パンフレットより引用しています。

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