生徒たちが朝会や体操で整列する校庭、机が整然と並ぶ教室。
学校空間は、つねにグリッドの上に生徒の身体を配置しようとする(管理しやすいように)・・と感じる人は少数派か?
「授業中は指定された場所に座っていなければならない」という規則は、どこにも書いてはないが、「自明」なのか?
身体を貫く学校空間の透明なグリッドに順応するのは”柔軟な適応力”なのか”鈍さ”なのか・・
「廃校」という場に反応するダンサーの身体~息が問う。
清潔で透明な無菌空間にこの世界を純化することが「進化」=グローバルスタンダード。
テクノロジーの高度化の果て、身体は人工基盤上の透明なグリッドの上に置かれ、無菌室、シャーレ、解剖台の上の個体(=孤体)として設定されている。
同時にかつてはグリッドを覆うように絡みついていた有機体---人と人をつなぎ、身体を縛り、あるいは護る、共同体的紐帯は「除菌・駆除」され、薄く弱くなっていく。
一方、グリッドが純化、透明化するほど逆説的に、あるいは反作用的に、
身体は生態系的つながりを求めて自ら懸命に無数の触手を空間に伸ばしているように見える。
身体自身が持つ空間の広がり(身体—空間の連続性)が浮かび上がる。
身体と身体の間の流動的で敏感な「空気」がそこで生まれる。
身体はもちろん同時に、成長・代謝する時間的連続体でもある。
身体は互いに共鳴・交響するが、不協和・衝突も生む。
空間に生まれる感動・落胆、安心・不安、共感・違和感。
日々成長する身体同士が生む空間は激しく、非連続的・流動的である。
学校という制度的建築が内包する空間に、
身体が生み出した空間の記憶が刻まれ、折りたたまれる。
廃校(=学校グリッドが崩壊しつつ明滅する空間)は、少年少女のゆらぎ多き身体が刻んだ記憶のアーカイブ空間でもある。
空間がざわめく。はるか彼方の喧騒のようでもあり、間近で囁く声のようでもある。
それは身体記憶の参照系として、身心の物語の再生の場となるのか。
身を投じたダンサーと、写真家の「緘黙」の身体記憶がここで共鳴する。
胸の息苦しさ、不安の記憶がダンサーの身体から匂い立つ。
「緘黙」が憑依したダンサーがシーンをスクロールする。
写真家は身体化されたシーンに没入する。
ダンサーの身体はその一瞬先の時空間をも胚胎している。
「教室の窓」の向こうに?
かすかな予兆がある。
その先に何が見えてくるのか・・
それは観る者にまかされる。
片山 洋次郎
1950年川崎市生まれ。身がまま整体気響会を主宰。著書に「整体 楽になる技術 (ちくま新書) 」「骨盤にきく―気持ちよく眠り、集中力を高める整体入門 (文春文庫) 」「身体にきく―「体癖」を活かす整体法 (文春文庫) 」「女と骨盤」など。